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15-5■政府の反撃


かくて十日問の停会期が切れたので、政府はさらに五目問の停会を命じた。そして伊藤首相は閣議を開き、この上は最後の手段をとるよりほかはないから、貴族院令改正の件を四元老に持ち出したと告げ、これに関する上奏書の草案を示した。伊藤はこの上奏書の草稿や貴族院改革の具体案を元老に告げたわけではなかったから、これは従来世問に漏れていなかったが、「原敬日記」に記されている。上奏書の大要は、

『貴族院は臣が政友会を率いて政府に立つことを喜ばず、如何に調和を求むるも之に応ぜず。然るに衆議院において斯の如き場合に遭遇せば、之を解散することを得れども、貴族院は解散することを得ざれば疏通の路なし。是れ憲法制定の時における欠点なるに因り、陛下もし臣をして尚此重職に置かるるを望まれるに於ては、貴族院の改造をなすの外在し。陛下之を是とせらるるに於ては、其案を具して上裁を仰ぐべし』(注2)

 そして伊藤は貴族院改造の腹案として、左の如く語った。

『枢密顯問官を増員して五十名くらいとし、貴族院勅選議員中より採用する。そして枢密院は内閣更迭という如き大問題の場合だけに諮問せられることにする。貴族院の勅選議員は百名くらいに制限し、適当の年限を付する』

 すなわち栄転の名によって、政党ぎらいの連中を枢密院に封じ込み、公正な人物を補充勅選しようという考えであったろう。伊藤が元老に諮ったのは、単に天皇に上奏して許しを得た上、貴族院を改革したいという決意について、彼らの同意を求めた。元老等は事の重大性に驚き、貴族院改革は是非思いとどまるよう、忠告するとともに、今度は貴族院抑制の方策を協議した結果、この上は天皇に願って貴族院に和解の詔勅を下すほかはないと決定し、田中宮内大臣を招いて、宮相の思いつきとして、天皇に詔勅下賜を内願させることにした。

 かくて天皇は近衛貴族院議長を召され、左の詔勅を下された

『朕中外の形勢に於て深く時局の頸なるを憂ふ。今に於て必要の軍費を支弁し並に財政を鞏固にするの計画を立つるは誠に国家の急務に羆す。朕先に議会を開くに方り示すに朕が意を以てし而して政府に命して提出せしめたる増税諸法案は既に衆議院の議決を経たり。朕は貴族院各員の忠誠なる、必ず朕が日夕の憂を頒つべきを信じ、速かに廟謨を翼賛し国家をして他日の憾を胎さざらんことを望む』

 この詔勅には国務大臣の副書がなかった。そこで近衛議長は伊藤に対し、詔勅下賜に関しては内閣員も知っておられることと思うが如何と、書面をもって照会したので、伊藤は近衛を招き、増税案が貴族院で否決される形勢であったから、その旨を委細陛下に申し上げ、また元老からも時局について奏上したというが、ついに聖慮を煩わすことになった。詔勅が下ったことを閣員が頸っているかどうか、それは自分の知るところではないが、追って閣議を開いて報告するつもりである。いずれにしても詔勅降下に対して、自分は責任をとるつもりであると答えた。

 かくて貴族院は増税案を可決し、伊藤および全閣員は天皇に進退伺書を提出した。天皇は辞職に及ばずとして伺書を差し戻された。ところが衆議院では、憲政本党をはじめ政友会以外の各派が一致して、内閣が聖慮を煩わした罪を責め、弾劾決議案を提出したが、否決された。

いかにも第十五議会において詔勅により貴族院を圧迫した如きは非立憲的であったが、貴族院の反対に処する法規がないのは憲法の欠点であり、詔勅降下はこの場合、よぎなき非常手段であったといえるだろう。すなわち英国のスワンピンクに類するものであった。しかし、もしこの非常手段を用いなかったとすれば星亨の大運動によって、一九一一年の英国の如く、日本の憲政は急進展したかも知れない。

 総予算案に対しては、貴族院は衆議院案に対して修正を加え、官吏増俸案を復活し、呉海軍造兵廠拡張費を削除したが、両院協議会の結果、官吏増俸費とともに、呉造兵廠拡張費亀削除するに互譲して妥協成立した。

 こうしてやっと第一五議会を通過した内閣は、今度は次年度予算編成に関し、渡辺蔵相と各省大臣との間に大衝突を起こしそのため内閣が瓦解した。(注3)5月2日に伊藤が辞表を奉呈してから、一ヶ月後の六月二日に、桂内閣が成立した。


by mrenbou | 2019-03-03 10:09 | 星亨伝第15章