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14-1■伊藤の新党計画


第一四議会閉会後(明治三三年二月二四日閉会)、星亨は末松謙澄から、極秘として、伊藤に政党組織の決心あることを聞いた。

伊藤は自ら政党を組織して、憲政の手本を示すつもりであり、昨三二年四月から地方遊説をはじめたのであった。彼はまず同月長野市に赴き、同地方の有力者を会して憲政の本義を説き、国家本位の真の政党を樹立する必要を力説した。次に五月には大阪、河内地方を遊説し、更に九州に下って大分、福岡両県下に講演を行うこと十回、更に中国に転じ山口、広島両県下を巡って、また、十回の講演を試み、帰途、名古屋の歓迎会に臨み、六月一六日大磯に帰着した。それからまた栃木県及び北陸諸県を巡り、一二月九日の東京における国家学会の講演を最後として、一応遊説を打ち切り、爾来政党組織の具体策を練り、旗揚げの機会を待ったのである。

これを聞いた星亨は、山縣との提携を打ち切ろうと決意し、その決まりを付けるために、できない相談と知りつつ、再び山縣に対して、閣員が憲政会に入るか、憲政党から三四人の大臣をいれるか、そのひとつを選ばれたいと要求した。山縣はこれに対して、兎も角東宮殿下御成婚(五月一〇日)を済ました上で考慮しようと答えた。しかし、彼は式後直ちに辞職するつもりであったのである。

山縣は五月中旬、辞意を天皇に内奏したが、天皇は彼を留意し、是非とも辞職したいならば、後任者を内定した後にせよと仰せられた。そこでまず西郷に譲ろうとしたが、言下に謝絶され、次に松方にもって行ったけれども、これまた応諾しなかった。そこで今度は、松方に依頼して伊藤を説いたが、伊藤も時期でないと言って固辞した。それは五月二七日の事である。

ここにおいて星亨はいよいよ正式に伊藤と政党組織を交渉すべく決心し、まず考慮を約した山縣の返答を聞くため五月三一日に総務委員一同、彼を訪問して返答を促したところ、山縣は例のように、閣員入党の件は各人の自由意思に任すべき事であって、自分から返答すべき限りではなく、また党員の入閣は、天皇の大権の属する問題であるから、私議することはできない、と拳もほろほろの挨拶であった。

これは彼らの予期したところであって、再考を求めるまでもなく、最後に「首相は辞意を決せられたと言う風説であるが、事実であるか」と訊ねたところ、山縣は平然として、「自分の辞意は今に始まったものではなく、昨年来、適当な後任者さえあれば、いつでも辞めたいと考えていた」と答えた。「然らば憲政党は、以降自由行動をとるから諒承されたい」と告げて別れた。

かくて彼らは即日評議員会を招集し、星亨から

『総務委員は山縣首相と会見の上、首相が辞意を決したことを確かめたから、もはや交渉を進める必要がないと認め、これを打ち切り、且つ、首相に対して、自今自由の行動に出ることを告げた』と報告し、満場一致でこれを承認した。

特に山縣の辞意を提携打ち切りの理由としたのは、党員中に提携持続を望む者があったからである。

翌六月一日、星亨、松田、林、末松の四総務委員に片岡健吉(衆議院議長)を加え、内揃って大磯の伊藤を訪問し、憲政党に入党して、首領になってもらいたいと懇請した。

これに対し伊藤は、とくと考慮の上で返答すると答え、翌日、伊東巳代治を招いて相談した。もちろん伊藤は独自の新党を創立する考えであり、自由党の解党参加を望んでいたのであった。巳代治は自由党がこれに応ずるかどうか、はなはだ困難と思うが、それも星亨の考え一つで決することであるから、自由党への返答はしばらく見合わせ、その前に自分が星を説得してみようといい、伊藤はこれにまかせた。そこで巳代治は星に対して、自由党の解党参加を勧めたところ、自由党の主義と伊藤新党の主義と一致するなら、解党参加してもよいと星は答えた。自由党は政党内閣制を主義とするに反し、伊藤は従来超然内閣主義をとって来たのであるから、この点、歩み寄りははなはだ困難であった。結局、伊勝は、この問題は憲法の明文に明らかなところであって、政党が主義として政党内閣主義を掲げることは大権干犯であるから、新党では、綱領前文(立党趣旨)において

「閣臣の任免は憲法上の大権に謫し、その簡抜擢用、或は政党員よりし、或は党外の士を以てす、皆元首の白由意思に存す」という説明を加えることにしたら、政党主義者も超然主義者も異議をさしはさむ余地はあるまいといい、星もこれに同意した。

後日、自由党の觧党大会において、ある党員がこの綱領前文をとり上げ、これは自由党多年の主張たる政党内㈲主義に反するではないかと質問したところ、星はこれに答えて「政党が知能道徳共に立派になりさえすれは、天皇の信用を得て、内閣組織の大命が下るにちがいないから、安心してよい」といった。政友会の綱領前文は憲法の解釈であり、これが正当であったことはいうまでもないが、星亨としては、超然主義派の有力な一角を征服し、順次彼ら全部が降伏するまで戦うことが、当面の目的であって、それが原敬時代まで一員した政友会の目的となった。

すなわち自由党の精神は、板垣から星へ、星から原へと伝えられたのである。伊藤は自分の政党を作ったつもりであったが、星は伊藤を抱き込んだつもりであり、事実上、政友会は自由党の拡大強化であったのである。

星と巳代治は協議を重ねること一ケ月、やっと自由党の解党参加はきまったが、なお伊藤としては天皇のお許しを得ることが先決問題であったから、巳代治を使者として、山縣に了解を求め、山縣に執奏を依頼したところ、山縣も今度はしいて反対せず、山縣から天皇に言上してお許しを得た。そこで伊藤は既成政党に拠らず、独自の新政党を樹立すべく決意し、七月八日憲政党総務を招いて次に覚書を渡した。

『諸君が憲政党の名を以て、余に統率の任に当らんことを求められたるは、余の光栄とする所なり。余は深く諸君の厚意を謝し、熟ら之に酬答する所以の道を考慮するに、余が今日に於て名を憲政党に列し、其首領たらんことは、汎く国民の要素を集めて、政党基根を固くし、紀綱を振粛し、責守を厳明にし、以て憲政の運用に対する真成の機関たらしめんとする諸君の希望に於ても、便ならざる所あらんを恐る。顯るに余不敏、亦聊か報効を万一に期す。而して政党改善の必要を感ずるに於て、諸君と殆んど其希望を一にするを喜ぶ。将来国家文明の政治を以て、立憲の美果を收むる必要より、余は之に関する愚見を公にするの日あるべし。其期に際し、諸君と相謀り、以て同一の軌轍に進むことを得ば、独り余の幸のみにあらざるべし』

かくていよいよ、新党の綱領および党則について星と巳代治が草案を作ることになったが、伊藤が最も強く要求したのは、第一に党名の件であり、彼は新党を「立憲政友会」と称し、党という字を避けること、その理由は党という語は朋党とか徒党とかいうものを連想させ、官界や実業界に嫌われ、その方面から参加者を求めるために不利であるというのであった。第二は新党の構造をクラブ体制にしたいということであった。彼が理想とした政党は、彼自身を信頼して集まる貴衆両院の議員の団体であって、機構的組織による結合体ではなかった。また彼の頭には旧時代の英国の政党があったらしい。英国でも政党がまだ院内団体にすぎなかった時代には、カールトン・クラブ(保守党)とか、リフォーム・クツブ(自由党)とか称し(保守党とか自由党とかいう名称は世人が呼んだ名であって、彼ら白身でつけた名ではない)、クラブ内での領袖らの密議で亊は決しかたので、伊藤はその時代の英国政党を目標とし、民衆組織となった近代政党に関しては知るところがなかった。伊藤の要求の第三は、自由党のような地方支部を設けず、地方においては、地方ごとに、その地方の同志が自由にクフブを設けるがよいという意見であった。英国でも旧時代にはそうであったが、こうした伊藤の意見に対し、星と巳代治は反対であった。結局、党名は伊藤案に従い、党の構造は星の意見に従った。

 要するに伊藤の計画は、個々の力で当選した議員を糾合して、これを指導しようとしたのであるが、米国の政党を研究して来た星亨は、選挙競争は政党の責衽において行なわなければならぬという考えであった。日本では政党本部が選挙に際し、その所属候補者に選挙運動費の補助をしたのは、星早が山県から金を引き出し、府県会議員選挙で補助金を出しだのが始まりで、これによって自由党は大膨張をとげた。

ところが伊藤はこれを政治の腐敗とし、政友会本部としては、選挙運動に関係することを禁じた。伊藤の総裁中(星の死後)、二度国会の総選挙が行なわれたが、伊藤は幹部の切なる要求にもかかわらず、最初定期総選挙では一銭一厘も選挙費を出さなかった。ただ二度目は桂内閣により解散された総選挙であったから、伊藤もついに幹部の強硬要求に屈し、臨時費(本部の経常費は日額五百円)として伊藤四千円、総務委員一千円、合計五千円を貧乏候補者に分与した。しかも一時多数を維持し得たのは、星亨が築いた地盤があったからである。

さて、党名と構造の問題はきまったが、伊藤としての次の問題は、さしあだって創立費用と財界から党員を募集するための連絡係りであった。この点については伊藤の周囲には役に立つ者が一人もなかった。そこで井上馨の援助を借りるよりほかなく、井上に相談すると、彼は元老という身分上、表に立って活動することができないというので、彼の代理として原敬を大阪から呼び寄せた。原は当時大阪毎囗新聞の社長であったが、彼はただちに新聞社に辞表を提出して上京し、新創立の準備に参加した。

以上のとおり、星亨、伊東巳代治、原敬三人の于によって、新党の綱領、党則の草案その他諸般の準備ができあがったので、自由党は八月十三日に党大会を開いて、挙党一致、無条件で伊藤の新党に加入するに決し、これを伊藤に通告した


by mrenbou | 2019-03-03 09:44 | 星亨伝14章