2019年 02月 07日
12-5■星亨憲政党を破壊
辞職を許されないため政治活動を控えていた星亨は、犬養が入閣したのを見るに及び、猛然と立ち上がった。板垣はじめ自由党が官僚派と共に尾崎攻撃につとめたにも関わらず、星亨はこの問題に触れなかった。彼はいよいよ憲政党を破壊し、近代的な組織による政党を樹立すべく決心をしたのである。
彼は二八日、初めて小山の別荘を出て、同日大蔵大臣官舎で開かれた自由派の領袖会議にその二六貫の巨躯を現した。
まだ進退に迷っていた首領らの視線は彼に注がれ、その瞬間の光景は『ナポレオンがエルベ島を脱して、フランスに帰った時のそれを想像させられた』と、その席にいた岡崎邦輔(明治三〇年三月自由党に入党)が後年私に語った。星亨は『事ここに至っては、考慮の余地はない。即時憲政党解党の一事あるのみだ』
彼はその瞬間に指揮権を握った。敗軍の将たる自由派の領袖たちは、かれの指揮に従う外はなかったのである。彼の発言に反対し得る者は一人もいなかった。官職のために温厚らしい顔をして、屈辱を忍ぼうとした連中も彼に威圧されて沈黙した。
当時の憲政党の総務委員は進歩派の楠本正隆と犬養毅、自由派の片岡健吉と江原素六の四人であったが、その日片岡と江原は明二九日憲政党解党の件について協議会を開きたいということを総務委員会に提議した。
当日犬養は文部大臣就任のため、各宮家にお礼参りをしていたので欠席し、進歩派は楠本だけであった。彼は解党には反対であったが、協議会召集には反対しなかった。
諸書に『その時楠本は解党に反対したにもかかわらず、自由派は勝手に協議会を開いて解党を決議した』と書いているが、鵜崎鷺城『犬養毅伝』には
『楠本が解党に対し承諾の意を表したということを夜に入ってから犬養氏が知って大いに驚いた』とある。
楠本が反対したにせよ、承諾したにせよそれは解党に対してではなく、解党の議する協議委員会召集に対してであり、協議員会が解党を決定すると、次に大会を召集して、これを討議決定する順序であった。楠本は温厚の長者であったから、自由派の両総務が解党を要求する以上は、これを協議員会に掛けることを拒むべき理由はないと考えたのであろう。
ところが犬養は大いに驚き、即夜大隈邸に進歩派領袖会議を開き、楠本をして前言を取消、協議員会召集に不同意の旨を片岡、江原に通告させた。
自由派はそんな通告で中止するはずなく、悉く戦闘準備を整えた後、翌二九日楠本を招いて、前言取消の通告は受け取ったが、既に協議員会召集の通牒を発した後であったから諒承されたいと告げた。
そこで進歩派は同派協議員に急使を走らせ、二九日協議員会召集の通牒は憲政党本部の関係しないものである旨を通牒すると同時に、片岡、江原両総務にも同様通告した。自由派は進歩派協議員の欠席を却って幸いとし、自由派だけの協議員会を神田青年会館に開いて、解党を決議した後、そのままこれを大会に変じ(臨時緊急の場合は、協議員会を以て大会に代え得る規定)協議員会決定通り、解党を決議すると同時に、またそのまま、これを新党創立大会とし、憲政党の名称、綱領をそのまま踏襲し、星亨、片岡健吉、江原素六を総務委員に挙げて直ちに警視庁に届け出た。
憲政党本部は、芝公園地の水交社跡(後政友会本部)に置いていた。この建物は星亨の子分日向輝武が海軍省から払い下げてもらい自由党の事務所として貸していた。それを憲政党が使っていたので、日向は憲政党に即立ち退きを命じて、新憲政党に貸してしまった。
そして、新憲政党は有名な三多摩壮士数十名を呼び寄せて、旧憲政党の事務員を追い払い、本部を防衛した。
進歩派の少壮代議士や壮士は本部を取り返すと言って勢い込んで馳せ付けたが、三多摩壮士が撃剣用のメン、コテに身を固め、手に手に竹刀または木刀を引き下げて警備している状況を見ては、めったに近づけず。すごすごと引き返し、ただワイワイ騒ぐばかりであった。
板垣、松田、林の自由派三大臣は、二九日解党決議と同時に天皇に直接辞表を提出した。天皇は板垣に対して辞表は預かり置くと仰せられた。大隈は板垣が辞表を提出した直後に参内し、板垣らが辞職しても、自分は議会に多数を制し得る確信がありますから、三大臣の辞職はお許しあって、後任の人選は自分に命じされたい旨を言上した。天皇は考えて置くと仰せられた。
翌三〇日、大隈は終日天皇の御沙汰を待ったが、天皇からは何の御沙汰もなかった。そこに西郷海相が訪ねてきて、組閣の大命は大隈と板垣両人に下ったのであるから、板垣が辞表を提出した以上、貴方も辞表を提出されたがよかろうと勧告した。大隈は、今は是非なく、翌三一日に大石、大東、犬養と共に辞表を提出した。なお徳大寺侍従長を経て、辞職の理由は当例により病気と書いておいたけれども、若し改めて自分に組閣の大命を下されるなら、お請けする用意がある旨を言上した。
一一月一日、進歩派は自由派の憲政党決議を無効として、憲政党大会を開いたが、警視総監西山志澄(自由派)は、憲政党なる政社は既に解体しているという理由で大会に解散を命じ、更に二日、板垣内務大臣は進歩派の憲政党に対し、政社法違反(届け出がないという理由)として存立を禁止した。
そこで進歩派は『憲政本党』の名称を以て、設立を届出た。その綱領は旧憲政党のものを、そのまま踏襲した。即ち、自由派の憲政党も進歩派の憲政本党も、その綱領は同一であった。自由派の逆襲戦は大勝利に終わった。この戦いは、司令官も参謀も軍資金の供給も、悉く星亨一人の力に寄ったのであって、彼は新憲政党の事実上の首領となったのである。
(注1)憲政党の創立経緯とその宣言及び綱領については「自由民権時代」515p~516pによれば
(宣言)
憲法発布議会開設以来、将に十年ならんとす。而して此の間、解散は既に五回の多きに及び、憲政の実、未
だ全く挙らず、政党の力、未だ大に伸びず、是に於て藩閥の余弊、尚・団結し、為に朝野の和協を破り、国勢の遅滞を致せり。之れ挙国忠愛の士の慨嘆する所なり。今や吾人は、内外の形勢に饂み、断然自由、進歩の両党を解き、広く同志を糾合して、一大政党を組織し、更始一新、以て憲政の完成を期せんとす。囚て茲に之を宣言す。
(綱領)
一 皇室を奉戴し、憲法を擁護すること。
一 政党内閣を樹立し、閣臣の責任を厳明にすること。
一 中央集権の干渉を省き、自治制の発達を期すること。
一 国権を保存し、通商貿易を拡張すること。
一 財政の基礎を鞏固にし、歳計の権衡を保つこと。
一 内外経済共通の路を開き、産業を振作すること。
一 陸海軍は国勢に応じ、適当の設備をなすこと。
一 運輸交通の機関を速成完備すること。
一 教育を普及し、科学を奨励すること。
第12章 終わり