人気ブログランキング | 話題のタグを見る

10-5■総選挙に立候補し当選する


 第一議会閉会後、山縣内閣は辞職し第一次松方内閣が成立した。第二議会においては、自由党の結束堅く、改進党と提携して予算の大削減を行ったので、議会は解散となり、あの有名な選挙干渉が行われたのである。

 星亨は明治二〇年から栃木県に戸籍を移し、同県第一区に立候補すべく準備していた。しかし第一回総選挙前に洋行したので、子分の中山丹次郎を自分の代理の意味で立候補させるべく、有志家とも打ち合わせて出発したのであった。ところが大井憲太郎は横堀三子を押し立てて、同士討ちとなり、中山はわずかの差で落選してしまった。

 星亨は、栃木県第一区を横堀に貸しているくらいに考えていた、次期選挙に備えるため、二四年秋、宇都宮に新聞を発行し、井上敬次郎を同地にやって経営させた。それは前からあった新聞社を買い取って『関東新聞』と改称したもので、主筆は居すわりで武智雄兎馬という同地の有力者で、経営は宇都宮第一の富豪高津弥兵衛が援助していた。相当な金をかけたので、経営は順調に運営していた。そのような時に、議会解散となったのである。


 (この新聞は選挙のための新聞であったから、一年ばかりで同志に譲り『下野日日新聞』と改題した。かくて宇都宮から引き揚げた井上を社長として、東京に明治二六年一一月に『めざまし新聞』を再興し、利光鶴松、が顧問格で専ら資金調達に当たった。主筆は金森通倫で、上野岩太郎、国木田独歩、小林蹴月などが筆を執った。小泉策太郎も日清戦争中に軍事通信記者として入社し、広島に出張した。ところが星亨は、利光と井上に任せきりで、朝鮮に行ってしまったし、利光も遂に力及ばず、遂に同じく星亨の子分菅原伝と日向輝武にこれを渡し『東京新聞』『人民』『人民新聞』となって明治四〇年ころに廃刊した)(注3)

今度はいよい星亨が立つべき順番でなければならない。横堀も自分が立つと聞いたら引き込むだろうと考えていた。ところが意外にも、星に引き込んでもらいたいと、民党連合軍からの名をもって(実は大井派の策動)交渉があったのである。横堀は民党連合軍に加わり解散を受けたのであるから、民党はかねての約束により、前代議士の再選を期さなければならぬと言うのであった。星亨は承諾しなかった。

『奇妙なことを承るものである。さような約束は院内団体だけで勝手に決めたのであって、党議で決定したのではない。従って、自分は勿論、選挙区の党員も、全く与り知らぬことである。また自由党に対する功労からいっても数年前から選挙区を開拓していた歴史から見ても、自由党は横堀にこそ断念を勧めるであろう、と自分は想像していたのである。自分の選挙準備は既に悉く整っている。断じて引き込むことは相成らぬ』こう彼は言い切った。

 そこで、横堀との対決(定員一名)となり、民党連合軍(実は大井派)が横掘を助けたので、非常な激戦となった。両派運動員の殴り合いなどは、毎日毎日ここかしこに行われ、時には斬り合いもあった。

 横掘は土着の郡長あがりで、選挙民と親しみがある上に、如才なく叩頭戦術を用いたので、意外に裏面的な強よみがあった。ところが星亨は彼と正反対に戸籍こそ移していても、実際は輸入候補であり、その上例の傲慢ちきな態度でぶっきらぼう、教えてやると言ったような演説をやるだけあって、頼むなどとは絶対に言わない。

当時応援に行った野條愛助という人が、『痴遊雑誌』に書いているところによると、誰でもが、会衆に自己を紹介する場合『わたくしは何某であります』と言うのに彼は『星亨は わが輩である』と言うので、訳を聞いてみると、星亨という名は天下にとどろいているから、知らぬ者はいない筈、それ故、その高名な星亨は、この俺だと言うのだ、との答えであった。そればかりではない。彼はこう傲語したものである。

『諸君、星亨は吾輩である。今回何の因縁か栃木第一区から候補者に立った。抑もこれは選挙区 の名誉である。諸君、この名誉を重んずるならば、吾輩を当選せしめよ。諸君が吾輩を衆議院に送れば、議長たる事此の星亨自身が保証する』

 これは野條氏の原文のままであるが、多少誇張があったかもしれないが、兎に角こういった調子であった。これが普通の候補者であったならば壇上から引き下ろされて、殴られたであろうが、さすがに高名な星亨であっただけに、そんなことは無かった。しかしこの調子では『草相撲』の横堀に足を取られそうで、運動員たちをひやひやさせた。それでも開票したら、一四〇五票対八二九票で勝利した。

 彼は四二歳であった。目本国中こういう態度で選挙に臨んだ者はかつて外にあっただろうか。私なその例を知らない。恐らく今日とても見られまい。

 星亨の争覇的相手たる大井憲太郎も、初めて今回の選挙に出馬して、大阪府第六区に立候補したが、吏党を相手に敗れた。彼はさきに党の改組間題で、星亨に屈して以来、兎角勢力振るわず、今また落選の悲境に陥った。この年一〇月、新たな運命を打開しようと、自由党を脱して『東洋自由党』なるものを創立した。党員中、議会に議席を有する者は、タッタ四人であった。ここにおいて関東の自由党は殆ど完全に星亨の手に握られることになったのである。


by mrenbou | 2019-01-19 10:43 | 星亨伝第10章