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9-6■憲法発布と星の欧米視察


 保安保例の発布で、後藤は闘将の凡てを失ったににもかかわらず、それでも彼は屈せず、全国を遊説して大同団結に努めていた。明治二二年二月一一日に憲法が発布された翌三月二二日、これもまた、突然、後藤が黒田内閣に入閣して農商務大臣に任ぜられた。(注11 )彼は入閣の理由を声明して『予の入閣は内閣に入って大同団結の主義を貫徹す為ためである』といったが、これはあながち表面を飾る口実ではなかった。

彼も板垣も、大隈入閣して改進党の政策を実行し、その勢力を腐蝕するならば、自由党からもまた入閣して、その政策を実行し、勢力を作らねばならぬと考えたのであった。一語に言えば、彼は大隈を牽制するために入閣したのであった。

 星亨は憲法発布による大赦を受け出獄した。後藤の入閣後まもなく四月イギリス議会の今上を視察すると称して日本を去った。時に二九歳であった。

 明年は衆議院議員の総選挙があるはずだのに、これを打ち捨てて、なぜ急いで外遊したかというと、当時全権公使として米国に駐在していた陸奥宗光に会って、衆議院議員総選拳に出馬を勧めたいと思ったからだ。

 また議会が開設されると、身辺が忙しくなって、外遊する余裕がなくなるので、議会入りは一期だけ遅れても、今のうちに先進国を見学しておきたいと考えたのであった。

 同時にかれは井上敬次郎にも勤めて、洋行させたが、その時、井上に勧めた言葉が、彼の志の大きかったことを示している。井上氏は語る。

『先生は特に私を呼んでこれからさきは、何事につけても、世界の情勢を知ってかからなければ、本当の仕事はできない。憲法が発布された以上、いずれ総選挙があるだろうが、君がこのまま選挙運動に加わって、政治に関係して行くのは、ちょうど雛鳥が羽翼も整わぬうちから、巣立するようなもので、充分に飛べないばかりでなく、その羽翼の発達までも、行き詰りになるのと同様、君が充分の準備を持たずに、政界に立つのは、結局、大きな仕事ができないことになる。

 そこで、この場合には、政治運動の方を暫く見合わせて、先ずアメリカに渡り、二、三年も学校にでも入って、勉強する傍ら、いろいろ実地の見学をして来るがよい。今世界の中で、日本の相談相手とするに、最も都合のよい国は、英国と米国であって、この二国とは国家的に兄弟分となることが出来る。そこで君は、手身近なアメリカに行くことにしたらどうか。という話であった』(痴遊雑誌)

井上はアメリカに行きたいけれども、旅費がないと答えた。すると星亨は

『それなら心配はいらない。おれもいくらか出すが、他の知人のところも回ってみろ』と方略を授けた。

一緒に渡米したいという友人と二人で、奉加帳を持って廻った所、頭山満の二五円(どうして五円という端金が付いたかというと、紙くずと一緒に懐に包んでいたあった金をそっくりそのまま出したからである)を筆頭に三〇人ばかりで六、七百円集まった。それに星亨が百円加えてくれたので、二人の旅費には充分であった。(当時サンフランシスコまでの船賃は百三四十円)

憲法発布をみて星亨は、もう院外から藩閥打倒の運動をする必要はない。それは議会の問題だと、ゆっくり欧米を視察し、大隈外相の条約改正騒ぎも黒田内閣の瓦解、山縣内閣の成立なども、外国にいて 聞いただけであった。

 ここにちょっと注意しておきたいことは、板垣退助監修の『自由党史』は、板垣および土佐派の頌徳碑と言ったようなきらいがあり、星亨及び関東派の活動に関する記述を粗略にとり扱った傾向があると言うことである。


(注1)末広鐵腸(すえひろ てっちょう、1849年3月15日(嘉永二) - 1896年2月5日(明治二九年)は、宇和島藩の勘定役『禎介』の次男として生まれた。反政府側の政論家・新聞記者・衆議院議員・政治小説家。幼名雄次郎、後に重恭(しげやす)自由民権運動の高まりの中で言論に志し、1875年(明治八年)四月、東京曙新聞の編集長明治義塾(三菱商業学校)に学び、1879年(明治一二年)から、嚶鳴社などの政談演説会で、国会開設の啓蒙演説を続け、1880年(明治一三年)慶應義塾出身者中心の政談演説討論会が中心となり、政治的啓蒙団体「国友会」が組織されると、大石正巳、馬場辰猪らと共に参加して、地方遊説もした。1881年(明治一四年)、国会設置が予告され、『自由党』が結党されて常議員になったが、1883年(明治一六年)脱党し、馬場・大石らと『独立党』を結成した。1884年(明治一7年)、成島柳北が没し、鉄腸は社長没後の朝野新聞を支え、犬養毅・尾崎行雄らを補強した。糖尿病を療養し、1886年(明治一九年)、政治小説『雪中梅』を出版した。1888年(明治二一年)、印税を資に、四月から米欧に旅行して翌年二月帰国すると、宿願とする政党の大同団結に立憲改進党系の朝野新聞社内が冷たいので、退社し、各地を遊説した。

(注2)金玉均の挙兵計画係る事件。その詳細は「自由民権時代」306p~311pを参照されたい。

(注3)この時の後藤の演説、丁亥倶楽部趣意書、同規則の詳細は「自由民権時代」329p~331pに掲載があるので参照されたい。

(注4)沼間 守一(ぬま もりかず、しゅいち)(1844年1月21日、(天保一四年) -(1890年)5月17日(明治二三年)は、江戸幕臣出身の政治家、ジャーナリスト。明治一二年(1879年)、元老院に辞職を申し出て雇い名義で隔日出仕するが八月に官吏の政談演説が禁止されたので雇いも辞職。『嚶鳴雑誌』創刊。横浜毎日新聞を買いうけ東京京橋区西紺屋町に東京横浜毎日新聞本局を開く。東京府会議員に選出される。明治一三年(1880年)臨時府会で副議長に当選。自由党準備会に加わる。明治一四年(1881年)自由政党創立委員となり国会期成同盟の責任者の一人となる。明治一五年(1882年)嚶鳴社一派を率いて立憲改進党に参加。東京府会議長に当選。明治一七年(1884年)立憲改進党解党に反対するが大隈重信・河野敏鎌ら幹部が脱党。沼間は党を孤守する。明治二〇年(1887年)、浅草井生村楼で旧自由党と立憲改進党合同の「大同団結大会」が開かれる。星亨派の壮士と衝突、重傷を負わされる。

(注5)三大問題建白書の内容は「自由民権時代」316p~326pに掲載があるので参照されたい。

(注6)後藤の上奏書の詳細は「自由民権時代」334p~340pに掲載があるので参照されたい。

(注7)保安条例七条からなる。その詳細は「自由民権時代」341p~342pに掲載がある

(注8)1879年大阪で『朝日新聞』を創刊した村山龍平は。星亨の『めざまし新聞』を買収して東京進出を果し。『東京朝日新聞』と改題して発行。その創刊号に明治天皇の木版肖像を付録にするなどの大阪商法で発行部数が急増し。各社連合をつくって対抗した在京新聞社に多大の打撃を与えた。

(注9)井上敬次郎は、1896年(明治二九年)熊本移民会社を設立し(ハワイ移民を取り扱い、東京鉄道株

   式会社専務取締役などを経て、東京市に入り、東京市電気局長、退職後は多摩川水力電気株式会社社長などを歴任。

(注10)星亨の知識は読書から得たものを日本の国情を考えて如何に対処したらいいかを考えだすところにある。政治は創造であると蓮山は「原敬」のことを評したが、星もまた創造する政治家であり、政治哲学を有していた、

(注11)後藤の入閣事情は「自由民権時代」356pに記載がある。


第9章 終わり


by mrenbou | 2018-12-30 10:43 | 星亨伝第9章