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5-5■星の現実主義


 星亭の不在中、日本においては、明治八年二月、大久保、木戸、板垣の三人が大阪に会合し(いわゆる大阪会議)、その結果、木戸、板垣両人は参議となり、四月一四日、『朕今誓文(五か条誓文)の意を拡充して茲に元老院を設け以て立法の源を広め大審院を置き以て審判の倶に其慶に頼んと欲す』と言う詔勅が発せられた。

 かくて後藤象二郎は元老院副議長(議長欠員)に任じ、陸奥宗光も元老院議官となり、二月同院幹事を兼ねた。                                     

 次で板垣は、参議、省卿分離説を提議し(即ち国務大臣と行政長官との分離)、林有造を参議に、島本仲道、中島信行、小室信夫を元老院議官に推挙したが、実行されなかった。ごたごたの末一〇月二七日参議を辞して、再び野に下った。

 星亨が功利的自由主義、現実主義、経験主義の本家たるイギリスから、思想的感化を受けたことは言うまでもない。

 スチュアートーミルは星亨が渡英の前年、即ち一八七三年に死んだが、スペシサーは一八七五年(五五歳)にその大著『第一原理』第三版を出し、翌年、その代表作『社会学』第一巻を出した。星亨の渡英時代は、まさにスペンサーの全盛期であった。

 望月圭介氏が星亨を語る場合に、いつも言ったことがある。それは『われわれが若い者の癖で、絶対に何々・・と論ずると、星君は、絶対と言う言葉は使うものでないと戒めた』いうのである。

 これも、英国現実主義に学んだものであることは言うまでもない。現実主義に絶対と言う言葉があるわけはないのである。スペンサーは『第一原理』の開巻第一に『悪夢の内に善の精があるばかりでなく、極めて普通に誤りの内にも、又真の精があると言うことを我々は余りにも忘れがちである』と言っている

 星亨は、江戸ツ子風の侠気に富んでいたが、一面においては、なかなか打算的であった。血の気の多い人間であるかと思えば、時としては氷のような冷静さを示した。一面には豪放粗大なとことろがあったが、一面には、堅実な事務家であった。これは、遺伝による彼の素質と、英国的教養とが、別々に現われてくるための、矛盾であったろうと思う。

 彼はパッパと金を振りまいて勢力を作ったかのように、世間から見られていたが、彼が惜しまず金を投げ出しだのは、党務上の必要に応ずる場合である。そうした揚合には、相手が予想、もしくは申し出た額より、必ず余分に出したということである。私的関係では、理由が明らかでなければ、容易に出さなかった。その方面では、むしろ締まり屋の方であったそうである。

 彼の母が死んだ時に(明治三二年)神鞭知常が通夜の席で『このお婆さんの半分だけ、星の金放れがよいと、天下を取るがなあ』と言ったと、側で聞いていた伊藤痴遊が語っている。実際、倅の方は母親のように、子分の遊女買いの費用まで出すような男ではなかったと言うのが、事実に違いない。

 彼の子分であったところの、私とは特別な関係の先輩、日向輝武が(注2)、私に語った話に、『星さんに金の無心をすると、紳士にただ金をやると言うことは失礼であるから、貸して置く、しかし、返しえなければ、一升返さなくともよいと言って、申し出た金を快く出してくれた』と言うことである。

 彼は青年など個人関係で出す場合は、少しばかりの小遣いでも必ず『貸して置く』と念を押したそうである。これは勿論後進に対する訓戒の意味も含んでいたであろうが、兎に角、世間ではいわれるような金遣いの荒い男ではなかったに違いない。

 彼は代言人としては、ボリ過ぎるというので、評判が良くなかった。大井憲太郎などは、場合によっては、無報酬で代言を引き受けるという人情を見せたが、彼は職業となると徹頭徹尾打算的で、誰に頼まれても、報酬なしでは動かなかったという。

 かように彼が打算的になったのは、英国から帰った後の事である。英国の現実主義、功利主義を離れて彼を理解することはできない。


(注1)蓮山は原敬が確立した「政党政治」を広めたいと、原敬の死後、大正一四年に「政党哲学」を執筆し、政党の歴史を主に英国を中心に解説した。その後、五一五事件で政党政治が混乱した時期に昭和一一年に「政党政治の科学的検討」を出版して政党政治、議会政治の継続を訴えた。星亨を語る時に英国の政党の成り立ちは欠かせないと、この章に加えたのだろう。


(注2)日向輝武は政友会の代議士。移民事業で財を成した。このことは後に本文に出てくる。蓮山は日向の後援者の娘新井イチと結婚して、親戚付き合いをした。



第5章 終わり


by mrenbou | 2018-11-18 14:46 | 星亨伝第五章