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4-4■和歌山藩兵学寮の英語教師に専念


星亨は明治三年九月、大阪開成所を辞し、和歌山藩兵学寮の英語教師に専念することになった。

 即ち星亨が和歌山に赴任した時には、陸奥は既に欧州に出発した後であった。星亨との約束は、出発前にできていたのである。星亨と同時に、林董、小松清治(ドイツ語学者)なども聘用された。この紀州藩の兵制改革は、天下の評判になったと見え、薩州からも視察’に来たという話である。明治二年四月十五日附木戸孝允から伊藤博文に送った書簡に

 書簡中『御国』とあるは長州のことで、和歌山藩の兵制改革書類を、長州の方に送るよう、烏尾に依頼してくれというのである。これで見ると、鳥尾は長州のスパイみたいなようであるが、或は長州と紀州との聞に、黙契があったのかも知れない。当時世上にそう言う評判もあったということである。

 陸奥宗光は、明治四年(一八七一年)五月に帰朝した。彼は今度こそはただ一戦の下に、薩州を叩きつけて付けてくれようと、来るべき戦争を夢みながら、大意気込みであった。

同年下旬、大蔵少輔伊藤博文が、造幣事務のため大阪に出張して来た。陸奥は彼と親交があったので、星亨、林薫、小松清治などを伴って彼を訪問した。星亨は二一歳、もう全く成熟して、大胆不敵な性格、カーライルがミラボウを評したところの、『絶大な男らしい魂』を、随所に発露しつつあった。

 当時の彼について岡崎邦輔氏(注2)は左の如く語っている。

『明治四年だったと思います。わたくしはその頃少年で紀州に居りましたが・・・陸奥伯が大阪に行く序に私も連れられて行き、天神橋の紀州の屋敷を陸奥伯の旅宿として居りました。私もそこに止宿いたしました。ある日同伯が当時まだ工部大輔(大蔵少輔)であった伊藤公、それから何礼之といふ学者、後に外務大臣になった林薫伯、裁判官として非常に令名ありました小松清治、それに星亨、その時分は二三、四(戸籍では二一歳)位だと見受けました。これ等の人々を同道して帰って来ました。ところが紀州の屋敷には御維新草創に、明治天皇が大阪に行幸せられ給うた時、お立寄りになられたといふ因縁にて、大玄関にお簾を下ろして玄関の柱に、奏任官以上昇降を禁ず、と言う大きな札をかけてあった。その玄関に一行がやって来た。すると玄関番が大きな声で、この玄関は容易ならぬ大玄関であるから奏任官以下の御一方々は、裏の玄関に廻ってくれと言うことを申したのであります。役人以外の人も、そこに居たのですから、余程不快を感じたけれども、仕方がないので内玄関に廻ってあがった。あがって見ると、星が一人見えない。

『星はどうした』と陸奥が聞きますと林薫が、星は『今日は帰る。他日参議になったら、この玄関から来ると言ってくれ』と言う捨て台詞残して帰った、と答えました。そこで星は傲慢だということで非難する人もあり、誉める人もあり、陸奥は、今にでも参議になるつもりであると言って、笑っていました。何礼之先生も傍から非常に賞讃して、彼はああいう癖はあるが、学問は非常によく出来る。他日きっと間に合う人間になりましょう、と言って、頻りに伊藤公に対して弁護して居ったのを、私も聞いて居ったことがありました』(三田評論)

当時、伊藤博文は三一歳、陸奥宗光は二八歳、津田出は四〇歳であった。

 この時、陸奥は近く廃藩置県が断行されると言うことを伊藤から漏れ聞いた。その時ばかりは、さすがの陸奥も、呆然自失の態だったと言うことである。


by mrenbou | 2018-11-11 08:51 | 星亨伝第4章